関東と畿内との間の「廊下」として、鎌倉時代以降に権力者から重視された。
歴史地理学的な東海地方は、木曽三川と富士川の間の東海道沿線に当たり、愛知県の全域と静岡県の富士川以西に当たる。これは、畿内政権の領土になった三重県と、関東の諸政権の領土になった静岡県東部の、双方に挟まれた地方という範囲である。
戦国時代から江戸時代にかけては、この木曽三川と富士川の間が、特に「海道」と呼ばれていた。主な用例として、「海道下り」、「海道一の大親分(清水次郎長)」などがある。
古代
平野部は気候が温暖なので、登呂遺跡に見られるように、古代から人類の定住が見られた。特に濃尾平野においては、弥生人の勢力が隆盛を誇った。
律令制の五畿七道で東海道が整備されたが、東海道は字義通り、「東へ通じる海の道」であった。律令時代は山陽道が大動脈だった時代で、東海道は関東から畿内や北九州へ向かう防人の通行路となった。
鎌倉時代から室町時代まで
源頼朝京都での内部抗争の末に、伊豆国の蛭ヶ小島に流刑された。後に頼朝が鎌倉幕府を開くと、富士川以東は鎌倉幕府の領土となった。
戦国時代
戦国大名が濫立すると、東海道は権力争いの場となった。中でも尾張国と西三河の2地域からは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった「戦国三大武将」を輩出した。また駿府(静岡)は、今川義元と徳川家康の本拠地となった。
江戸時代
江戸幕府が開かれると、江戸(東京)と京都を結ぶ東海道五十三次が整備され、その往来は日本第一の規模となった。この東海道沿線の中には、宿場町や城下町から発達した都市も多い。
明治から第二次世界大戦まで
明治維新で中央集権体制が成立すると、名古屋が地方統治の拠点となり、それ以降は政府機関が集中するようになった。又、廃藩置県期の東海地方には、名古屋県、額田県、豊橋県、浜松県、静岡県、足柄県などが分立していたが、1876年8月以後は愛知県と静岡県に削減され、現在に至っている。
1889年2月には東海道本線が開業し、天竜川と木曽三川の間の地域は、綿織物工業の中心地となった。
第二次世界大戦後
高度経済成長期には、太平洋沿岸と瀬戸内海沿岸を中心に重化学工業地域が造成されたために、東海道線沿線には東海工業地域や中京工業地帯が造成され、工業生産の中心地帯になった。
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